KAMCA男声合唱講座

このたびKAMCAアドバイザーをお願いした横浜並木男声合唱団の指揮者、吉田千鶴子先生に私たちのための連載講座の執筆をお願いしました

吉田千鶴子先生合唱講座第1回

 

気が付けば男声合唱団の指揮をしていた

 

KAMCAから「私の男声合唱論」についての原稿の依頼がありました。

余りにも漠然としており、諸先輩を前にして「論」と言うほど大袈裟な「論」は寄稿出来ないので「合唱法」と言う観点で書いてみたいと思います。

女性である私が、なぜ横浜並木男声合唱団の指揮者に就任したか?については若干興味もあるのではないでしょうか。

国立音楽大学の声楽科を卒業し、小さい頃からの夢であったソリストの道を歩んでいた中で、合唱とは殆ど縁はなかったと言っても過言ではありません。ある日、声楽のレッスンに通っていた高校生から「父が合唱団でソロを歌うのだけれど、レッスンしてもらえませんか?」「お父さん??」「並木男声合唱団にいるんです」当時並木に住んでいた私は何となく地元に男声合唱団が出来たらしい‥程度の噂は聞いていましたが、オジサンの集まり(失礼)には興味もなく、もう一度頼まれたらお受けしようと思いました。ところがかなり切羽詰まっていたのか、再び頼まれてレッスンすることになりました。緊張の極致でレッスンに来られたWさんは、大汗をかきながらも一生懸命レッスンに向き合ってくださいました。並木男声合唱団(発足当時は横浜がついていませんでした)は、20人程度の合唱団であること、ほぼ全員が未経験であること、毎回飲み会があること(笑)楽しそうですね・・ここで終われば、指揮者にはなっていませんでした。「良かったらボイストレーニングに来てもらえませんか?」この時何故お引き受けしたのか、今でも分かりません。

きっとカラオケは上手なんだろうと思えるオジサマが20人、およそ合唱とは言い難い一人ずつが勝手に歌っている集団。後悔先に立たず。それがいざボイストレーニングに入った所、真剣なまなざしで一言も漏らさないよう耳を傾け、全てを吸収しようとする姿勢に感動。呼吸の方法、体の使い方、声の作り方「しっかり見て!!」と言いつつ「そんなにジロジロ見ないで・・」と心に中で思いながら一回目を終えたことはよく覚えています。40個の目玉は強烈でしたがそれ以上の熱意を感じました。私の意欲がかきたてられたのかもしれません。

そして翌年、並木男声合唱団二代目指揮者になっていました。

大学時代に合唱も指揮法も学んでいましたが、男声合唱だけは未知の世界、指導させていただくからには猛勉強したのも懐かしい思い出です。

合唱団のタイプは色々あると思います。常に最高のハーモニーを求め、一つの歪みも許さず、崇高な音楽を目指す合唱団。コンクール出場を目標に、闘うことを前提として正統派の音楽を求める合唱団。元来歌うことが好きだったことから合唱に興味を持ち、やるからには基本から学び上達したいと考える合唱団。音楽が趣味である仲間を求め、一緒に歌ってその喜びを分かち合っていきたいが、自分の楽しみ以上は求めない合唱団。

どの合唱団もそれぞれの良さがあります。そして指導者はそれを見極め、自分と同じベクトルで進んでくれる合唱団と歩みたいと願っています。並木男声合唱団は、後ろの二つの中間くらいにありました。大学グリーのOB合唱団のような中核もなく合唱未経験のメンバーを合唱人にするためにはどうしたらよいか・・ここから闘いが始まりました。

男声合唱は女声合唱に比べて音域も広く、何より倍音が聴こえやすいのでパワーが何倍にも広がります。まるでそこに女性がいるかのような音色が聴こえると心まで震えます。昨今は大きな声だけで圧倒するような男声合唱は少なくなってきて、包み込むようなハーモニーが増えてきました。

こんな大海で並木男声合唱団はどう泳いでいったらよいか・・

次回より順を追って、日本語の詩を伝えるための発声法、言葉を一つの息の中に流し込む歌い方等、そして歌って踊れる合唱団をプロデュースした経緯ついても書いていきたいと思います。

 横浜並木男声合唱団常任指揮者 吉田千鶴子


 

吉田千鶴子先生合唱講座第2回

母音は曲者

自然な発声で美しく歌えば上手くなる・・これはレッスンに行くといつも言われたフレーズです。夢のような理論でどこを突っ込んでいいのか分からない説明ですよね。私が学生の頃は師匠から音声生理学的な事は何も教わらず、ひたすら練習に励み見よう見まねで歌ってきました。比較的物まねが上手だったのか、これでオペラも歌えてしまいました。どれだけホールを鳴らせるか?若さという武器で大声自慢をしていた気もします。今考えれば何て無茶な練習だったのかと思います。

学生時代を楽しく歌って過ごしていたのに、いざ仕事で歌うようになると歌に責任が伴ってきました。つまり失敗は許されなくなります。一度の失敗は次の仕事に繋がらない恐れが出てきました。いつでも完璧に「いい声」で歌わなくてはならない、その時になって初めて「発声ってなんだ?」原点に戻された感じでした。歌えているのに理論はわからなかった訳です。

たくさんの本を読み漁り、ベルカント唱法を教えてくれる師匠を探し、一からやり直すことにしました。この時が一番勉強したかも・・・

発声は奥が深く、これだ!と確立もされていません。まだまだ感覚に頼らざるを得ない部分もありますが、少なくとも合唱人として押さえておきたいところをお話させていただきます。

声を出す時の空気の流れは、肺→声帯→口蓋→舌→歯→口唇 となります。肺から送り出された空気は声帯を振動させ口腔内に入り、口腔内の容積や舌の位置で母音を形作ります。母音は舌や口の中のどこにも触れずに出す音で、日本語は「あ・い・う・え・お」の5文字、英語などは17文字程度(絶対的な正解はないがIPAの基準として)あります。この母音の響きと、子音の捌きで歌を歌っていくわけです。

では、日本語の母音は本当にこの5つだけでしょうか?

「あー出来た!」「あー失敗した・・」この二つを喋ってみてください。

「あー」は同じ「A」でしょうか?「出来た!」は、喜びや感動を感じて明るい「A」で、「失敗した」方は、暗い気持ちや後悔で暗い「A」で発声したと思います。つまり感情を伴うと、同じ母音でも音色が若干変わってきます。と言うか、変えずに歌ってはダメだということです。この微妙なニュアンスを歌うことが詩を伝えることにつながります。

「大地讃頌」の最初の部分「ははなーる だいちーのー」を、母音で表すと「AAA-U AII-O-」となります。3つ続く「A」を全て同じに歌ってよいでしょうか?

日本語のセンテンスにアクセントはありませんが、高低はあります。「母」は最初の「は」が高い、詩の内容から明るい言葉であり、やんぱメソッドで「やんぱぱー」と歌うと考えると、最初の「HA」は前のめりで子音の「H」を出して「A」は明るく長め、次の「HA」は前の「HA」に比べて低いので、少し口を小さくします。「NA」は「N」で舌を上顎につけて、下顎を下げる過程で「A」を作ります。口が開くまで口腔内の容積が変わりながら「A」が鳴ります。そして「RU」は響きを保ったまま口を小さくし(息が出難くなるので意識して息を流す)、一番伝えたい「大地」の「DA」は、平べったくならないように「どあ」の感じでたっぷりと広がりを感じて、「ICHI」も響きを上顎に当てるようにして作り「だ・い・ち」とバラバラにならないようにします。最後の「NO」も「N」で舌が上顎につき、下顎を下げながら口腔内を縦長にします。

文章で書くと難しくなりますが、読みながら口を動かして声を出してみてください。同じ「A」でも言葉の意味と感情を加えて色を出しましょう。また、2拍、3拍と長くのばす時も母音のみになりますが、ブザーのように無機質にのばすのではなく、次に続く言葉や感情を加えていくことが大切です。

この母音が滑らかにつながると音楽性がぐっと増します。

横浜並木の練習は、母音の扱いにダメだしされることが多いです。もちろん子音の役目も大きいですが、一瞬の子音に比べて後を引く?母音は曲者なんです。

 

 横浜並木男声合唱団 吉田千鶴子

 



特別寄稿

(本稿は、小田原男声の斎藤団長がJAMCA通信79号に寄稿されたものを、斎藤さんのお許しを得て転載しました。JAMCA通信掲載分に比べて一部修文されています)

多田武彦先生と小田原男声合唱団

 

  男声合唱を愛好するものにとって、『多田武彦』という作曲家は大変に大きな存在であったと思う。おそらく何十万という男がその作品に傾倒していたことであろう。しかし、その憧れの対象であった、多田先生に直接のご指導を受けたり、親しく酒を酌み交わし語り合ったものはそう多くはなかろう。私は、小田男のメンバーだったことで、その多田先生と何度も関わらせていただいた。まず、私にとって最初の出会いは、小田原男声合唱団の第20回の定期演奏会(1991)へ向けての練習だった。この年の定期演奏会では、多田先生に客演指揮をお願いし、「柳河風俗詩」「三崎のうた」の2曲を振っていただいた。

 小田男にとっては前年に長い間常任指揮者であった福永陽一郎先生を失ったばかりで、多田先生に客演を引き受けていただけたことは本当に心強いものであった。熱のこもった練習、そして、練習後の飲み会にも何度もお付き合いをいただき、先生の音楽観、銀行員としての経験からの様々なお話は非常に興味深いものであった。この当時、先生は藤沢にお住まいになっておられ、小田原からはJR東海道線で35分程度と比較的近かったこともラッキーであった。この年の定期演奏会のプログラムには次のようなメッセージを寄稿していただいた。
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 | メッセージ 多田武彦 
 今回、図らずも小田原男声合唱団のリサイタルに参加させていただく機会を得て、なるほどと納得したことがいくつかあった。 先ず、みんなが「合唱」をこよなく愛し、「音楽」という、人類と永い付き合いのある芸術を尊ぶ心を大切にしていたこと、次にさまざまな職業を通じて社会的使命を果たしているメンバーが、この合唱団の場を通じて、意見を交換し、それぞれの職掌に一層の磨きをかけていたこと。そして、このエネルギーの源流に、永年この団を指導され、惜しまれて他界された福永陽一郎先生の人生哲学が確認されること。更に、今回私は、たくさんの注文をつけながら練習をすすめて行ったが、この異なった指揮者に対する即応性が高かったこと。 今日、日本では、小田原男声合唱団と同じように真摯な活動を続けておられる団体も多いが、その中でも突出したパーソナリティーを持った団体とお見受けした。 この得難い伝統と特性を持った小田原男声合唱団が、年々若い世代の参加を得て、悠久の発展を遂げられんことを心からお祈りする。 

(第20回定期演奏会客演指揮者) 
小田原男声合唱団第20回定期演奏会プログラムより


  そ して、次に先生と関わりが深まるのは、作曲を委嘱することからであった。小田男として最初に委嘱をお願いしたのは、創立30周年を記念した、第30回定期演奏会(2001)での演奏曲「西湘の風雅」となった。小田男としては『小田原に由縁のある詩人の詩で』と希望し、多田先生は、迷わず「大木惇夫」の詩を選び6曲の組曲が完成した。ちなみに「西湘」とは『湘南の西』を表し、小田原近辺は西湘地区とも呼ばれている。この作品は、この年の11月10日の第30回定期演奏会にて初演し、2週間後の11月24日のJAMCA第15回演奏会(金沢)で再演し、好評を博した。この作品では、多田先生が選んでいただいた詩に「酒匂川」「風祭」「鴫立つ沢」など小田原近郊の者にとっては身近な地名などが多く入っており、小田男メンバーのお気に入りとなっている。
 
  この定期演奏会のプログラムに多田先生は次のような文章を書かれている。
 | 「西湘の風雅」初演にあたり 「45年前、初めて小田原の海を見た」  冒頭部分 省略 1956年(昭和31年)11月大阪育ちの私は新婚旅行で熱海箱根をまわり、大磯の宿に行く途中、小田原に降り立った。市内を見る時間が無かったので、南口の洋食堂で早い夕食を摂った。夕陽が穏やかに差し込んでいた。料理に舌鼓を打った。海をみようと海岸へ出た。砂浜には人影はなく、晩秋の相模湾は一面鉛色で、波立っていた。外海の力強さが、深く心に残った。  小田原男声合唱団の特質の一つに、演奏の力強さがある。一方、男声合唱組曲も力強い終曲で締め括りたい。そんな思いで大木惇夫先生の詩を選んでいて「海音」を見たとき、突然、45年前のこの海景が想い出された。  巨人あり、  おごそかに、ほら貝を吹く。  一日われ、海辺にたちてそを聴けり。  以下割愛 
 
  次に委嘱をお願いしたのは第35回定期演奏会(2006)であった。この際は、やはり小田原由縁の詩人としての代表格である「北原白秋」の詩を先生はお選びになり「冱寒小景」が作曲された。北原白秋は1918年から約8年間小田原に在住し、この間に数多くの作品を書いている。多田先生はその白秋の冬の詩6編を選び組曲として完成された。この「冱寒小景」は2006年7月のJAMCA第17回演奏会〈大分〉で初演された。
 そして、2008年には、大木惇夫の詩から6曲からなる組曲「四季點綴」(しきてんてい)を作曲していただき、JAMCA第19回演奏会(滋賀)にて9月に初演を行い、11月の第37回定期演奏会で再演した。この曲にも「旅愁小田原城」という詩も含まれて おり、小田男には親しみを感じる曲となっている。
  第30回、35回、37回と比較的短期間に委嘱作品をお願いしたが、第40回定期演奏会(2011)での「達治の旅情」が小田男としては最後の委嘱作品となった。この「達治の旅情」は、これまでと異なり、小田原由縁の詩人ではない、三好達治が取り上げられた。このことについては、メロス楽譜から出された、男声合唱組曲「達治の旅情」に作曲者の言葉として、多田先生の思いが書かれている。三好達治の生地と多田先生の生地が同じ大阪で大変近い場所であったことから、縁を感じ、達治の詩での作曲を何度か試みたが果たせず、1977年に「わがふるき日のうた」等で実現できたとのことである。そのように三好達治への思いが、この「達治の旅情」になったと思われる。もちろんこの組曲には、小田原にゆかりのある詩も収蔵されている。1曲目の「いつしかにひさしわが旅」は『たまくしげ 箱根の山のこなたなる 足柄の山・・・』で始まっている。

  このように小田男としては4つの男声合唱組曲を作曲していただいが、委嘱をお願いした以外にも多田先生には、小田男の演奏会にお出でいただいたり、練習へのアドバイスなどもいただいてきた。私が特に印象に残っているのは、第38回定期演奏会(2009)で「草野心平の詩から」を採り上げた際に、多田先生に曲作りをレクチャーしていただいたことである。このころ多田先生は、「合唱音楽に関する効率的練習方法」というタイトルでご自身の持論をまとめており、私たちに丁寧にお話いただいたことを覚えている。(先生は、お話を始めると、なかなか止まらず時間をかなりオーバーしたようだったが)この「合唱音楽に関する効率的練習方法」の主なタイトルを挙げると①「軟口蓋共鳴のポイント」②「楽譜を読む力、歌う力、聞き耳を立てる」③「構築性と装飾性」④「演劇と音楽の時間的進行上の共通点」⑤「名監督、名俳優の語録」からなっている。④⑤は一時、映画監督を目指した多田先生ならではの内容ではないだろうか。

  最後にJAMCAにとっても、多田先生との関わりがいくつかあると思われるが、私にとっては、JAMCA第21回演奏会(2013信州 岡谷)が大きく心に残っている。この時、オルゴール生産の盛んな岡谷市での開催にあたり、参加者への記念品としてオルゴールを作成しようとなった。男声合唱の代表的な曲をとの意見から、多田先生の「雨」の終曲が候補となり、「多田先生にご縁の深い小田男で先生との交渉をお願いしたい」とのJAMCA事務局からの依頼を受け、私が先生のご自宅(この少し前に先生は藤沢から平塚に転居されていた)のマンションに出向き、エントランスロビーで経緯の説明と、楽曲使用の承諾をお願いした。さて、話は順調に進むかと思われたが、なかなか先生が納得できるものができなかった。それは曲の長さであった。8小節の長さであれば、曲のテンポも崩さずにできるとの提案に対して、先生は「16小節入らないと曲として成立しない」とのご意見でした。通常はオルゴールのドラムにつけられる爪の数でドラム1周分のテンポが決まりますが、16小節分の爪をつけるとテンポが速くなってしまう。結局は苦肉の策として、ぜんまい仕掛けで自動演奏するのではなく、ダイヤル式という手回しでドラムを回す方法に落ち着きました。この方式では木箱に入れることはできなかったのですが・・・。ともかく、このときはやはり作曲者のこだわりというものを強く感じました。
 

 小田原男声合唱団 団長 斎藤 惠司


男声合唱人のブログ

Symposium シュンポシオン(コールグランツ 加藤良一氏)

http://www.max.hi-ho.ne.jp/rkato

合唱道楽歌い人(ポパイ 関根盛純氏)

https://1999-malechoirpopeye.blog.so-net.ne.jp/

コーラスは面白い(菅野哲男氏)

シュンポシオンの中にありますが・・・

多田武彦公認サイト

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作曲家多田武彦メッセージ集

  ( 新月会名誉会長 牛尾孝氏)

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